オランダ経済の中に内発的に生じた歪みとか行き過ぎによって、彼らの行動が必然化されたというわけではない。
一七世紀後半のイギリスにおいて、商人上がりの銀行家たちが王様のお家の事情に振り回されたのも、まさしく外生的災難である。
銀行家たちは自らの選択の狂いあるいは行き過ぎによって困難に陥ったわけではない。
「南海の泡沫」事件の場合には、南海会社の怪しげな輝きに目がくらんだ投機家たちにとっては、確かに身から出た錆の面がある。
だが、これも真犯人は実をいえば国であった。
南海会社に儲けさせて税収を上げ、その上、政府の借金の一肩代わりまでさせようという構想だった。
時の大蔵大臣の企みである。
いわば官製バブルであった。
その限りでは、投機家たちも犠牲者ではあった。
もとより、産業金融というものも存在する余地がなかった。
南海会社は大蔵大臣の全くの皮算用の産物だった。
だが、一八二五年の場合には、ことの発端はそれ以前における実態的な経済活動の盛り上がりにあった。
一八二○年代の初頭には、南米におけるスペイン・ポルトガルの植民地が相次いで独立した。
そのことは、イギリスにとって新たな輸出市場の出現を意味していたのである。
くしくも、「南海の泡沫」事件の時と同じ南米が主役ではあるが、ことの経緯は一○○年前とは異なっていた。
海外市場からの新たな需要の盛り上がりを展望して生産が拡大する。
そのための資金基盤については、銀行家たちが面倒をみる。
中南米ビジネスを立ち上げようとする企業家たちに対しても、潤沢に資金が供給された。
かくして盛り上がる中南米ビジネスの活況をみて、投資家たちが南米の鉱業関連株を買う。
モノとカネの二人三脚の中で、経済は次第にバブル化していった。
この盛り上がりに突然の終わりが来た。
それが一八二五年春のことであった。
つくり過ぎた生産が行き詰まり、貸し過ぎた金融機関が破綻し、買われ過ぎた株が暴落する。
モノの値段は下がり、人々は路頭に迷った。
以降、イギリスでは一八三六年、四七年、五七年と概ね一○年周期で恐慌現象が起こる「永遠の繁栄」の中のアメリカ第一次大戦の勃発によって、この恐慌サイクルはひとまず中断されたわけだが、戦後の混迷が一巡する中で、「資本主義の内在矛盾」は再びその姿を現すことになる。
それが最も鮮烈な形で出現したのが、いうまでもなく一九二九年のニューヨーク証券恐慌においてであり、それに続く世界金融恐慌、そして世界不況へと進む展開の中においてであった。
二○世紀に入って、恐慌の舞台はイギリスからアメリカに移ったわけである。
パックス・ブリタニカからパックス・アメリカーナヘの主役交代劇の中で、恐慌現象の主舞台もまた、大西洋を越えたのであった。
展開をたどった。
一○年ごとに「過剰生産に基づく資本主義固有の矛盾が爆発」するようになったのである。
こうなってくれば、もはや、この現象を外からやって来た危機だとして片づけるわけにはいかない。
生産体系の中で内生的に醸成された過剰と歪みが頂点に達して一気に清算される。
そこで経済活動は原点すなわち均衡点に立ち戻り、再び拡大過程に向けて始動する。
一九世紀のイギリスにおいて、この「内生的破綻型」恐慌のパターンが定着したのであった。
一九二九年恐慌の経緯については、既に多くの研究成果やドキュメンタリーが存在する。
ここで改めてその辺りを詳録することは避けるが、概略的にいえば、およそ以下の通りで第一次大戦の終戦後、アメリカは一時的にいわゆる戦後恐慌を経験したが、一九一二年後半以降は極めて旺盛な成長軌道をたどった。
この間のアメリカ経済の快進撃について、アメリカは「永遠の繁栄」を手にしたといわれたのは周知の通りだ。
なお、この当時の成長急進には、自動車とその関連産業が多大に貢献したこともよく知られている通りである。
その自動車産業が、一二世紀初の恐慌の中で空前の窮地を訴えている。
感慨深いことだが、それはきておき、一九二○年代のアメリカにはまさに誰にも止められない勢いがあった。
だが、まさしくその勢いの中に「内生的破綻型」恐慌の芽が潜んでいたわけである。
「永遠の繁栄」の成長を支えたのは、国内においては都市化であり、対外的には欧州の復興需要であった。
欧州の復興需要については多言を要しない。
国内については、自動車の普及による郊外都市の出現、そしてそれに伴う建設需要・新設住宅需要が大きく寄与した。
新たに出現した都市間の道路網が整備されれば、そのことが自動車産業をさらに発展させた。
マンハッタンの高層ビル群もこの時にその基本骨格が完成したのである。
まさに華々しい需要の盛行だった。
だが、思えばこれらはいずれも戦後という時期に特有の需要であった。
ビル建築ラッシュも住宅ブームも、要は戦時下で先送りされていた棚上げ需要だ。
欧州の復興需要については、いうに及ばない。
そうした性格の需要である以上、いずれは一巡して頭打ちとなることは当然だった。
その時は一九二四年から一九二五年にかけて訪れた。
それに代わって一九二○年代後半のアメリカを覆ったのが、不動産と株式を中心とする狂気の投機ブームだったのである。
経済の実態面が冷え込み始める中で、余剰化した資金が投機に向かい、繁栄の余韻に華を咲かせた。
余韻は急速に幻想化するのであるが、人々はそれに気づかない。
一九二八年一二月四日、時のクーリッジ大統領が議会に送った一般教書には、次のように記されている。
「現在現われているほどの喜ばしい見通しにぶつかったことは未だかつてない。
国内には平和と満足と、そして繁栄期の最高の記録がある。
」一九二九年、「暗黒の木曜日」幻想が打ち砕かれたのが、一九二九年一○月二四日だった。
かの「暗黒の木曜日」である。
生産過剰の実態は次第に顕在化していた。
そこにクーリッジ政権に代わって登場したフーバー政権の投機抑制政策が加わることで、市場心理は一変した。
もはや、大暴落に歯止めをかけられる者はどこにもいなかった。
この当日だけで一二九○万株が売りに出され、売りが売りを呼ぶ展開になった。
この株価暴落はアメリカの金融システムを直撃した。
当時はまだ銀行による株式の保有と自己勘定による売買が認められていたから、多くの銀行が保有株の減価で大損失を蒙った。
そればかりではない。
一九二○年代を通じては株式を担保とする消費者ローンが急速に普及していた。
株価が大きく下がれば、これらのローンは不良債権化する。
それに伴う損失も大きかったのである。
これらの要因があいまって、「暗黒の木曜日」以降は銀行倒産が続出する展開となったのである。
まず一九二九年に六五九行が倒産し、三○年にはこの数が一三五○行まで一気に膨れ上がった。
結局、一九二九年から三三年三月にルーズヴェルト大統領が就任するまでの問において、実に九五○○行の銀行が破綻に追い込まれたのである。
当時の全米銀行総数の四四%に相当する数字だ。
これだけ銀行の数が減ってしまえば、信用収縮で経済活動が大きく委縮することは避け難かった。
なす術なく、深刻化へこの事態に対して、ルーズヴェルト政権が誕生するまでのアメリカの政策当局には、事実上、なす術がなかった。
なぜなら、彼らは金本位制によって手を縛られていたからである。
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